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『蕉斎筆記しょうさいひっき』にはまた次のような話が出ている。三州亀浜かめはまの鳴田又兵衛という富人の家へ、安永の初年ころに、京の大徳寺の和尚だというのがただ一人でふらりと遊びにきて、物の三十日ほども滞在し、頼まれて額がくだの一行物だのを、いくらともなく書いて還かえった。あとから挨拶あいさつの状を京に上のぼせると、大徳寺の方では和尚一向にそんな覚えがないとある。ただしもとこの寺に一匹の狸がいて、夜分縁先えんさきにきて法談を聴聞ちょうもんしていたが、のちに和尚の机の上から石印を盗んでいずれへか往ってしまった。其奴そやつではなかろうかといっていると、果して後日の噂には江州大津の宿で、駕籠を乗替えようとして犬に喰殺された狸だか和尚だかが、その石印を所持していたそうである。三州の方には屏風びょうぶが一つ残っていた。見事な筆蹟であったという。しかしこれだけの材料を綜合して、狸が書家であったと断定することは容易でない。やはり最初から、旅僧の中には稀まれには狸ありという風説が、下染したぞめをなしている必要はあったのである。狐の書という話も例は多いが、『塩尻しおじり』(帝国書院本)の巻六十八および七十五にも、これと半分ほど似た記事がある。美濃安八あはち郡春近はるちかの井上氏に、伝えた書というのがそれであって、その模写を見ると鳥啼花落ちょうていからくと立派に書いて、下に梅菴ばいあんと署名してある、本名は板益亥正、年久しく井上家の後園に住む老狐であって、しばしば人間の形をもって来訪した。筆法以外医道の心得こころえもあり、また能よく禅を談じたが、一旦中絶して行方が知れず、どうした事かと思っていると、或る時村の者が京に上る途みちで、これも大津の町で偶然にこの梅菴に行逢ゆきあうた。もう年を取って死ぬ日が近くなった。日ごろ親しくした井上氏と、再会の期もないのは悲しいと落涙し一筆認したためてこれを托し、なお井上が子供にもよく孝行をして学問を怠らぬようにと、伝言を頼んで別れたそうである。梅菴は野狐にして僧、長斎一食なりとあって、何だか支那の小説にでもありそうな話だが、現に鳥啼花落が遺のこっているのだからしかたがない。しかし『宮川舎漫筆みやがわのやまんぴつ』巻三には、早同じ話に若干の相違を伝え、公表せられた狐の書というものにも、野干坊元正やかんぼうげんせいと麗々れいれいと署名がしてあった。
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